樹木希林の名言!無駄なものを削ぎ落とした潔すぎる生き方と言葉

個性派女優として活躍された樹木希林さん。

左眼を失明し全身がんを患いながらも、正面から病に向き合い、老いや病気を面白がる姿を見せてくれました。

権力に媚びず、弱いもののために戦い、多くの人に愛された希林さんの残した心に響く言葉を集めました。

樹木希林のプロフィール

名前樹木 希林(きき きりん)
本名内田 啓子(うちだ けいこ)
生年月日1943年1月15日ー2018年9月15日(享年75歳)
出身地東京府東京市
身長160cm
血液型A型
職業女優

誰にでもはっきりと物を言う希林さんが芸能界で慕われるのには理由がありました。

「『演技教えてやるから、部屋に来い!』って大御所俳優から言われて、困っていたら『演技なら、私が教えた方が良いから』って希林さんの部屋に私をかくまって下さったのです。おかげ様で女癖の悪い俳優の毒牙にかからずに、女優を続けてこれました」

「プロデューサーに部屋飲みを要求されたり、共演者から夜這いをかけられたり、様々なセクハラ、パワハラのある撮影現場は昭和には特に多かったので、希林さんに助けられた共演女優は多いでしょうね。希林さんがいらっしゃる現場は楽しいから、皆が希林さんを慕って、生涯仕事に恵まれたのだと思います」

希林さんは若手女優さんたちにとって、頼りになる面倒見のいいお姉さんだったんですね。

面白がる

おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい。


楽しむのではなくて、面白がることよ。


嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだん嬉しい感情が湧いてくる。


面白いわよねぇ、世の中って。「老後がどう」「死はどう」って、頭の中でこねくりまわす世界よりもはるかに大きくて。予想外の連続よね。楽しむのではなくて、面白がることよ。楽しむというのは客観的でしょう。中に入って面白がるの。面白がらなきゃ、やってけないもの、この世の中。


人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。若くても不自由な事は沢山あると思います。それは自分の事だけではなく、他人だったり、時には我が子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、面白がっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。


シンプルに

かっこいいと思う物しか周りに置かない。


靴下でもシャツでも最後は掃除道具として、最後まで使い切る。人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。


モノがあるとモノにおいかけられます。


モノを拒否するってことは、逆にエネルギーが要るのね。だけどしていかないとね、もう片付かないの。


病気をしてから、いつ逝ってもいいように、自分の周りを身軽にしておきたいという思いが強くなったのはあるわね。朝はひとしきり掃除することから始まる。ぐちゃぐちゃしているのを見るのが好きでないの。でも、ものがなければ簡単よ。


トロフィーも置き場所がないぐらいもらっちゃって、世間的にはいいのかもしれませんが、芸人なんていうものは、スッと消えていったほうが良いんじゃないかなと思っているんです。自分のなにかを残そうなんていうのは、面倒くさいものなのよ。


これからやりたいこと?まったくないの。やり残したことも言い出したらキリがないから、ない。ただ、自分の身じまいをしていこうとは思う。人の迷惑にならないような居方をしたいからね。


新しいものはめったに欲しいと思わないし、家のテレビはいまだにブラウン管なんだから。


お金ってもう使わないから。使う必要がなくなっちゃったから。自由になるくらいの生活できますけど、何にもしたいものないですね。


富も名誉もいらないんです。


欲がないわけじゃない。欲はある。でも人とズレてる。一事が万事、そぎ落としてスクッとしていたい欲。力を入れずにスクッとね。人間としては見栄は必要だけど、その張り場所よ。人と比較しないで、見栄は他人に張らずに、置かれた環境のなかで自分自身に見栄を張ることじゃないかしら。


死生観

生きるのも日常、死んでいくのも日常。


ちゃんと生きるっていう事は、何でもない事をやるしかない。


人間としてどう終了するか。


「人は死ぬ」と実感できれば、しっかり生きられる。


やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいもない人生だから、大仰には考えない。


「死をどう思いますか」なんて聞かれたって、死んだことないからわからないのよ。


死を疎むことなく、死を焦ることもなく、ひとつひとつの欲を手放して、身仕舞いをしていきたいと思うのです。人はにねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。それが、私の最後の欲なのです。


人は必ず死ぬというのに、長生きを叶える技術ばかりが進化してなんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。


死に向けて行う作業は、おわびですね。謝るのはお金がかからないから、ケチな私にピッタリなのよ。謝っちゃったら、すっきりするしね。


自分が生きてきたことが、人様のご迷惑にならないようにと思ってるの。生きていることによって、出すゴミがないようにね(笑)。『役目を存分に果たした』と思えるように、「人生を始末」する気持ちで毎日を過ごしてるのよ。


死ぬ時くらい好きにさせてよ。


飽きたでしょ、おなかすいたでしょ、って思っちゃう。私がくたびれちゃうのね。だから一人でやろうと思うの。それで、一人でできなくなったら、「これにてご無礼いたします」。そうだね、最後のセリフは「はい、みなさん、今世はこれにてご無礼いたします」。いいセリフだよね。


生命は永遠のものだと思っています。現在、このように服を着た樹木希林は死ねばそれで終わりですが、生命というものはずっと続き、またいろいろなきっかけや縁があれば、次は山田太郎という人間として現れるかもしれない。


今の時代は型がなくても生きていける状態になった。でも死ぬ時に気づいて振り返ったときに、「あらーっ」て思うんじゃないかな、とも思うの。でも私はそういうふうにしては死ねないな、というのがある。この身体って、自分の好きなように動くから、すっかり自分のものだと勘違いしちゃってた。本当は神様から借りていただけ。自分のものではないのよ。だから使ったら、ちゃんと返さないといけないの。そうとは知らず、今までずいぶん無理させちゃった。今さら気付いても遅いんだけど、本当にごめんね。

歳を重ねる

『おっ、今度はここが動かなくなってきたな』『あぁ、なるほど、耳が遠くなってきたな』とかね。そういうものを俯瞰で見てるって感じなんですよ(老いについて)。


私の場合には、年を取ることに対して、一切ストップをかける気持ちがないんです。だから私は『老いる』ということに対して、恐怖もなければ、嫌だなあという罪悪感もない。


あのね、年をとるっていうのは本当に面白いもの。年をとるっていうのは絶対に面白い現象がいっぱいあるのよ。だから、若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、一つずつを面白がってほしいのよ。


歳をとると人間が成熟するとは大間違い、不自由になった分だけ文句が出るの。


歳取るっていうのも、なかなかいいなと思ったの。(何事も)諦めていくっていうか。


この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。〜中略〜 でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。若くても不自由なことはたくさんあると思います。それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。


普通女優さんは実際の現状を世の中に知られるのを嫌がるんですけど、もう70歳を過ぎていますので、部分入れ歯を使ってるんです。せっかく歯医者で作ってもらったんだから、これは使わなきゃ損だと思って。

がんと生きる

がんはありがたい病気。周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。ひょっとしたら、この人は来年はいないかもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう? そういう意味で、がんは面白いのよ。


病気のおかげで、いろいろな気づきもありましたね。だって、気づきをしないと、もったいないじゃない? せっかく大変な思いをするのに、それを『こんなふうになってしまって』と愚痴にしていたら、自分にとって損ですから。


病を悪、健康を善とするだけなら、こんなつまらない人生はないわよ。


「病名は?」って医者に聞いたのよ。「いろんながんがあるけど、私の今の病名は何ですか」って聞いたら「全身ががんですよ」って言うのよ。「え、あ、私、全身ががんなんですね」って。そういうことなの。別に衝撃的でもなんでもないわけ。どこに出てもおかしくないがんなわけです。


(自身の全身ガンに関して告白したことについての言葉)ガンになって死ぬのが一番幸せだと思います。畳の上で死ねるし、用意ができます。片付けしてその準備ができるのは最高だと思っています。内田に言われました。『全身ガンで明日にでも死ぬのかと思っていたら、やたら元気でいろいろなところに顔を出すので、あれはガンガン詐欺(笑)だと思われているよ』って。


どの場面にも善と悪があることを受け入れることから、本当の意味で人間がたくましくなっていく。病というものを駄目として、健康であることをいいとするだけなら、こんなつまらない人生はない。


布団の上で死ねるなんていうのは上出来なことなのよ。ガンは布団の上で死ねる病気なの。私、家で死にたいからさ。


がんをやっつけようとすると、へばるとわたしは思ってるから、『薬出しますか?』って言われても、いらないって言う。薬飲んで寝ついてたら、もっともっと、がんが増えると思うのよね。闘うっていう感覚がないんだね。生活の質を下げないで、自然にいるような道を見つけようという生き方なの。


(全身ガンに侵された後)この肉体も借り物だから。


ガンは日常の積み重ねの結果故に、摘出したら終わりというものではない。


死はいつか来るものではなく、いつでも来るものなの、私の場合。全身がんですから。だから仕事も先の約束はしない。せいぜい1年以内。


がんが見つかっても、決しておっかなびっくりしないの。出ればつぶせばいいじゃん。


私は変人だから。こう言ったら怒られるかも知れないけど、Tシャツ着た時とか、なんか邪魔だと思ったから。(※乳がんで右乳房を全摘出したことについて)

結婚・家族

結婚なんてね、若い時にしとかなきゃダメなの。物事の分別がついたら、あんなことできないんだから。


(夫婦について)きっと感謝する時が来ますよ、両方で。


みんなね離婚してね、次にいい人と出会ってるつもりでいるけど、似たようなもんなのね。ただ辛抱が効くようになっただけで。


「あの結婚はすぐにだめになる」って言われていて。そうすると私はあまのじゃくだから、「そうですかね」と。今となると、内田さんの方が気の毒だと思う。変なのにひっかかっちゃったな、って。私が親だったらそう思う。


妻という場所があるから、私自身も野放図にならないんです。


まあ、縁ですから。自分に合った人と出会うわけですから。それに、親がへたばって喜ぶ子供はいないでしょ。よく娘は「お母さんは他人だからいい、私は血が繋がってる」って。今回も「お母さんがいてくれてよかった」と言ってくれました。

(内田裕也さんと)四六時中一緒にいるわけではないけれど、本質は変わらないわね。いつも頭のなかに彼のことがありますから。


(内田裕也さんとの結婚について)すごくいいヤツでね、あの夫じゃなかったらば、こんな面白い人生はなかったと思います。


私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。


(離婚を拒否したのは、それを上回る大きな愛かという質問への答え)愛というより、私には内田さんが必要だったということですね。ただ向うは迷惑だっただろうなというのはよく分かる。今は『どうもありがとうね。大変だったわね』と言うと、『そんなことネェー』と言いますがね(笑)。来世で出会わないために、今完璧に付き合っているのよ。


夫1人だけ、奈落の底に落として、自分だけ保身ということはしません。


(夫・内田裕也について「女性問題で謝ったことは?」)という質問への答え)1度もないです。だから多分、死ぬ間際に言うかどうかですね。向こうが先に死ぬ場合は、『もうひと言何かありますか』と聞きます。


30代前半、結婚したての頃、すごかったですね。毎晩、家の中めちゃくちゃ。包丁はどのくらい買いにいったかわからない。金物屋は『どうしてこんなに包丁が壊れるんですか』って。


(夫・内田裕也容疑者が強要未遂と住居侵入の疑いで逮捕されたのを受けて)こういう事件が起きるのが遅かったなぁ。今回、さらして頂いて逆にありがたかった。私からは頭をさげません。本人に下げてもらいます。


内田裕也の全てが、好きです。全てが。


(自身の離婚について語った言葉)籍を入れた以上、引き受けていくしかない。夫の中には今も、純粋なもののひとかけらがみえるから。


(夫である内田裕也が交際中だった女性に脅迫文を出し逮捕された時の被害女性への嫉妬について)そういう次元ではない。そこ(交際)にいたる愚かさとか、悲しさという視点でみている。


もし生まれ変わったら、内田とはもう逢いたくない。もし次逢ったら、また好きになってしまってまた大変な人生を送ってしまうから。


(夫である内田裕也氏が交際中だった女性に脅迫文を出し逮捕された時の言葉)面会を許されても私は行きません。だって歩いて帰ってこられるでしょう。どうやって謝るかは男の器量ですよ。


(夫・内田裕也氏が交際していた別の女性について語った言葉)夫は男女ともに同じような情熱で人を好きになる。思い出の品も大切にする。それは寂しさの裏返しで、彼の孤独感がそうさせたのでは。


(夫・内田裕也が交際していた別の女性について)実際に会って『こちらから身を引きましょうか』と言ったことはある。そのときは女性に『結構です』と言われましたが。


(2011年5月12日・夫である内田裕也が強要未遂と住居侵入で逮捕を受けた際の言葉)ー(震災で)命がけで生きていこうという方がいらっしゃるのに、こんなつまらないことをして。


(夫・内田裕也との離婚についてきかれた際のコメント)今世は離れたまま、来世は絶対に会わないように…。籍を入れた責任上、今後はどうするかはそのつど考えながら引き受けていくしかないと思っています。


生まれ変わることがあっても、出会わないように気をつけたい。(夫の内田裕也さんに)


全部、好きです。すべて何もかも好きです。もし、来世というものがあって、生まれ変わることがあるのなら、また巡り合うことがないように。出会わないように、気をつけたいわね。


“この野郎!”となっても、“杖はどこいった?”じゃどうしようもない。そのうちに“面倒くさいかぁ”で終わり。別に仲良くなったわけじゃないのよ。

生きる極意

必要のない人なんて、いないんだから。


欲と雪は積るほど、道を忘れるっていういうじゃない。


いちいち気にしてたらキリがない。


見本になるのも一つの生き方。


おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい。


人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前。


失敗したらね、そこからスタートなの。あんまり深く考えない。


絶対こうでなければいけないという鉄則はない。


失ったものより今あるおトクを探すようにしてる。人と比べずにね。


他人と比較しない。世間と比較しないこと。比較すると這い上がれないので。挫折するので。(※仕事や人生を楽しむ秘訣について)


欲や執着があると、それが弱みになって、人がつけこみやすくなる。


ちょっとした出来事とか、物とか、そういうものの背景にある人の気持ちに気付けるかどうかが大事ね。


言葉ってものは、傷つけもするし、幸せにもする単純な文法です。


(手相を鑑定した。人生の中で困難を乗り越えてきた人にできる“障害線”が沢山あると言われて)それを障害と見るか、自分が乗り越えて人間として豊かになると見るか…ですよね。


端から見て良さそうに見えているものが、案外その人にとって辛かったりするものがあるから、みんなそれぞれだから。


もしかしたら当初の設計よりも面白い物が出来るかも知れないでしょう? 直しちゃったら、ミスはミスのままだけど、それでまた別のことができたら、ミスが活かされたことになると思うんです。


難のある人生を卑屈になるのではなく、受け止め方を変える。自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受け止める。受け止め方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。


自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。


どれだけ人間が生まれて、合わない環境であっても、そこで出会うものがすべて必然なんだと思って、受け取り方を変えていく。そうすると成熟していくような気がするのよね。それで死に向かっていくのだろうと思う。でも人間ってだらしないから、あんまりいい奥さん、あんまりいい旦那さん、いい子供で楽だと、成熟する暇がないっていうか。


自分で立ち位置を変えていくの。そうすることで人間は成長する。もちろん、一人で気楽に生きていくのも人生よ。でも、それじゃあなかなか成長しないだろうなと思うの。背負わなくっていいもん。いつでも厄介さから逃げられる。


「自分がいつまでも」っていうことが美しいと思っているなら、この世の中に排除されたらつらいでしょうけど。それが普通だと思っていたら、排除されるっていうことはひとつもいやじゃないわよ。


今日、用事があることを『今日用(きょうよう)』と言っているんだけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。『今日用』をこなす事が、人生を使い切ったという安堵につながるんじゃない。


成年の失敗よりも老人の跋扈が一番世の中を悪くすると思う。私がある80のおばあさんにいったら「ばっこってなーに?」「のさばること!」


(美しさ、醜さについて)それはその人から見て、美しければ美しく、醜ければ醜いし。だってあんなに顔を引っ張ってしわを伸ばしたって、その人は「美しい」と思ってやっているけど、「変なの」って思う人もいるし。すべてそうじゃないですか。


日本は八百万(やおよろず)の国なので幸せです。無宗教さえも1つの平和な状況で幸せです。この神が絶対というのも幸せかもしれないですが、それによって争いという不幸が出てくる。日本はそういう意味で、争いはない。宗教に関してとても幸せでそれは非常にいいことだと思っています。


健康な人も一度自分が、向こう側へ行くということを想像してみるといいと思うんですね。そうすると、つまんない欲だとか、金銭欲だとか、名誉欲だとか、いろんな欲がありますよね。そうしたものからね、離れていくんです。


(私を)置き去りにしてって言っているの。みんな、ジリツ(自立・自律)してくれって。


やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいもない人生だから、大仰には考えない。


片目白内障で失明して、 世の中、色々なものが見え過ぎて、片目でちょうどいい。


もともと形あるものしか見てなかったけど、これで裏っかわにあるものを見ていくチャンスかな。(*左目失明を明かした会見で)


『私が』と牙をむいているときの女というのは醜いなあ。


本当は本来、女のもっているタチ(性質)、男がもっているタチがあると思うのね。女が美しくなる適性、男が見事になる適性ってあると思うの。そこをとっぱらっちゃって、どうでも生きられる時代なのかな。


絆というものを、あまり信用しないの。期待しすぎると、お互い苦しくなっちゃうから。


だいたい他人様から良く思われても、他人様はなんにもしてくれないし(笑)


迷ったら、自分にとって楽なほうに、道を変えればいいんじゃないかしら。


自分は社会でなにができるか、と適性をさぐる謙虚さが、女性を綺麗にしていくと思います。


言わなくていいことは、ないと思う。やっぱり言ったほうがいいのよ。

仕事

仕事する為に人間やってるわけじゃない。


あのね、フラッシュ全然構わないのよ。それになんで一般の人は写真撮っちゃいけないって言うの? 私、悪用されても全然構わないのよ。(舞台挨拶で「フラッシュ撮影禁止」「観客の撮影禁止」の注意事項が伝えられた時)


(テレビドラマ『寺内貫太郎一家』で、31歳にもかかわらず、一家の老婆役で出演した時の思い出について)あれは自分が楽したくて『婆さんならやる』って向田さんに言ったの。要するに寝てりゃいいと思って。そうしたらとんでもなくて、年中色んな所へ出入りするお婆ちゃんになっちゃった。


役者ならば、自分に対して常に挑戦。


女優、俳優っていうのをこーんなにやっているとは思わなかった。なんかね1年間勤務しようというような感じ。大学も行かないし、専門学校も行かなかったし。


セリフがあまりない役をずーっとやってきたから、自分で存在感を示していくしかなかった。芝居はそういうものだと思ってきていたから。セリフがたくさんある役をやると、それがとても邪魔するわけ。自分で作っていかないと成り立たない人生を送ってきたから。


主演をやりたいわけではなく助演でいいの。主演でも助演でも私の場合はギャラが一緒だし、セリフは少ない方がいいの(笑)。セリフが多いと割りゼリフにして監督に了解を取って皆にあげちゃう。


薬剤師になるつもりが挫折し、スネかじりで居られたので、ある日、戦後初めて研究生を文学座が募集という新聞記事を見てふっと応募したんですよ。新劇は合わなかったです。1字1字間違えずにセリフをしゃべらなきゃならないんですが、何か生きていない。最も通行人A、Bとか、大した役はつかなかったんですけど。


いろいろなものがあっていいのよ。その中から自然淘汰されて残ったものが、次の世代につながっていきます。今人気のある若手俳優も皆キラキラしたものを持って魅力があります。後はそれをどこに置くのかというのが重要だと思いますが、キャスティング・プロデューサーというのは日本ではあまり重きを置かれていませんが、とても大切だと思いますね。


(バラエティ番組のスペシャルゲストとして登場した際、出演者のお笑い芸人らが「どうして、この番組に来てくれたのか?」と問われた時の言葉)ー(映画の宣伝が目的だが)これに出たからって、お客が増えるとは思えない。


自分のことは棚に上げて、“演技がヘタクソだな”とか思って(大物俳優を)見てたりしていた。


「自由」っていうと格好が良すぎるけど、「責任がない、勝手」ていう感じかな。この作品の責任を取ろうと思うととても大変なんだけど、責任を取ろうと思わないから、すごく勝手なの。それが結果的に自由に見えるのかも。「予定調和にならない」というところは、私の生きてきた環境、出会いがそうしたのかなまずは人間として自分がどう生きるかということが、大切だと思ってますよね。(そうすれば)こういう環境のこういう人だったら、そこでそういうふうにして生きていくのかな、って分かるようになります。なので、演技を見つけていくんじゃなくて、まずは人としてどう生きるか。そういうふうに思って役作りをしてるんですね。


私の演技ってすごく類型的なの。立派なものじゃないの。普段、「俳優とは」っていうこと考えると「観客に媚びず」とか思うんだけど、実際にやるとなると、すごく類型的なの。すっごく刹那的な役作りよ。


演技をやるために役者を生きているんじゃなくて、人間をやるために生きているんです。


代表作?ないのよ。助演どころか、チョイ役チョイ役って渡り歩く、チョイ演女優なの。


地位とか名誉とかを得ようという気持ちはありませんでした。どうせなら名誉より実の方がいいです。昔、郷ひろみちゃんと一緒にユニットを組んだとき、賞をいただいたのですが、私は『賞状とかトロフィーはいりません。副賞だけでいいですから』っていったぐらい(笑)


私、とにかく今、一人でやっているでしょ。ここに来るのも一人、何をするのも一人。誰かに頼むとその人の人生に責任を持てないから。


今は仕事のブッキングも全部、自分でやっています。そうじゃないと、人の人生までブッキングしちゃうからさ。がんを持病として持っているし。そういう身体であるということがすごく歯止めになっている。


こちら希林館です。留守電とFAXだけです。なお過去の映像等の二次使用はどうぞ使ってください。出演オファーはFAXでお願いします。

自分

私は人間でも一回、ダメになった人が好きなんですね。


私の話で救われる人がいるって? それは依存症というものよ、あなた。自分で考えてよ。


喧嘩っ早いからね、すぐ喧嘩しちゃうのよ、私ね、若い頃ね。


私が今日まで生きてきて、自分で一番得したなと思うのはね、言葉で言うと、不器量と言うか、不細工だったことなんですよ。


人がうれしかったりした時に、泣くことが多いわね。悔しい、悲しい、で泣いたことはないわね。「なんてすてきなことを言うんだ」っていう時に泣けてくるね。


美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに(富士フイルムCMのひとこと。希林さんのアイデア)


(網膜剥離で左目を失明した際、それまで治療をしなかった理由を聞かれた時の言葉)今まで色々な物が見え過ぎた。


(※幼稚園時代の思い出について)母親が働いていたから、父親が乳母車に乗せて幼稚園に行くの。乳母車乗っけないと私が嫌がるから。で、幼稚園に着くと人が集まってくるじゃない。恥ずかしいから乳母車から降りて父親に『帰んな』と言うの。一言だけ。嫌な奴なのよ(笑)


こういうおばあさんが一人ぐらいいてもいいわよね?


こんにちは、高齢女優の樹木希林です。

内田裕也さんの希林さん追悼コメント

最期は穏やかで綺麗な顔でした。
啓子 今までありがとう。
人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。
おつかれ様。安らかに眠ってください。
見事な女性でした。

内田裕也
平成30年9月20日

樹木希林さん葬儀での内田也哉子さんあいさつ全文

 喪主に代わって、一言ごあいさつさせていただきます。

 本日は足元の悪い中、大変お忙しい中、母・内田啓子の本葬儀にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。

 私にとって母を語るのに、父・内田裕也をなくして語れません。本来なら、このような場で語ることではないのかもしれないですが、思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた“奇妙な家族”でした。

 また生前母は、恥ずかしいことこそ、人前でさらけ出すというやっかいな性分だったので、皆様が困らない程度に少しお話させてください。

 私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の2人きりの家庭でした。

 そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも私達にとって大きな存在だったことは確かです。

 幼かった私は不在の父の重すぎる存在に、押しつぶされそうになることもありました。

 ところが困った私が、なぜこのような関係を続けるのかと母を問い詰めると、平然と、だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるからと私を黙らせるのです。

 自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると、頭ではわかりつつも、やはり私の中では、永遠にわかりようもないミステリーでした。

 ほんの数日前、母の書庫で探しものをしていると、小さなアルバムを見つけました。母の友人や、私が子供の頃に外国から送った手紙が丁寧にはられたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便せんに目が止まりました。それは母がまだ悠木千帆と名乗っていた頃に、父から届いたエアメールです。

 『今度は千帆と一緒に来たいです。結婚1周年は帰ってから二人きりで。蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。

 裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。

 俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。

 ロックをビジネスとして考えなければならないときが来たのでしょうか。最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。落ち着きと、ずるさの共存にならないようにも。

 メシ、この野郎、てめぇ、でも、本当に心から愛しています。

 1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』

 今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。

 普段は手に負えない父の、混沌と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。

 そして、長年、心の何処かで許しがたかった父と母のあり方へのわだかまりがすーっと溶けていくのを感じたのです。

 こんな単純なことで、長年かけて形成されたわだかまりが溶け出すはずがないと自分に呆れつつも、母が時折、自虐的に笑って言いました。

 私が他所から内田家に嫁いで、本木さんにも内田家をついでもらって、みんなで一生懸命家を支えているけど、肝心の内田さんがいないのよねと。

 でも、私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。

 時には本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して、暴れる父をなぐってくれ、そして、私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。

 何でもあけすけな母とは対照的に、少し体裁のすぎる家長不在だった内田家に、静かにずしりと存在してくれる光景は未だにシュール過ぎて、少し感動的ですらあります。

 けれども、絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索するときが来てしまいました。

 怖気づいている私はいつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。

 『おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい』

 まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。

 生前母は、密葬でお願いと、私に言っておりましたが、結果的に光林寺でこのように親しかった皆さんとお別れができたこと、またそれに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母との唯一無二が交流が垣間見えたことは残されたものとして、大きな心の支えになります。

 皆さま、お一人お一人からの生前の厚情に深く感謝しつつ、どうぞ、故人同様、お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

 本日は誠にありがとうございました。

内田裕也さん葬儀での内田也哉子さん謝辞全文

 本日は大変お忙しいところ、父、内田裕也のロックンロール葬にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。親族代表として、ご挨拶をさせて頂きます。

 私は正直、父をあまりよく知りません。「わかりえない」という言葉の方が正確かもしれません。

 けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、生前、母が口にしたように「こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。

 世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也」ということが根本にあるように思えます。私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、溶岩の狭間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢な存在でもありました。

 率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと、実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。

 けれども、きょう、この瞬間、目の前に広がる光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ、父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。父親という概念には、到底、おさまりきらなかった内田裕也という人間が叫び、交わり、噛みつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。

「これ以上、お前は何が知りたいんだ」

 きっと、父もそう言うでしょう…。

 そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは、何だったのか? それは、たぶん、大袈裟に言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルイ奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。

「これ以上、生きる上で何を望むんだ」

 そう、聞こえてきます。

 母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかった、と申し訳なさそうに呟くことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに…」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、折り折りに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。

 私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。勿論、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。歴とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、メオトの取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。

 けれども、真実は、母がその在り方を自由意志で選んだのです。そして、父もひとりの女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。

 二人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した二人。私という二人の証がここに立ち、また二人の遺伝子は次の時代へと流転していく…。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです!

 79年という永い間、父がほんとうにお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。

 Fuckin’ Yuya Uchida,

 don’t rest in peace 

 just Rock’n Roll!!!

2019年4月3日 喪主 内田也哉子

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