渋沢栄一の名言!一万円札の顔になる反骨の人が重んじた礼儀と生き方

「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一さんは、華麗な経歴とは裏腹に、強いものに立ち向かう反骨の人でした。

若い頃には倒幕を目指すも、計画が頓挫し追われる身になり、思想と真逆の幕府側の人間になるなど、思い通りにならないことも多かったのですが、ユーモアあふれるチャーミングな人柄で周りの人たちを魅了しました。

渋沢栄一のプロフィール

名前 渋沢栄一(しぶさわ えいいち)
生年月日 1840年3月16日-1931年11月11日(満91歳没)
出身地 武蔵国榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市血洗島)
職業 幕臣、官僚、実業家、教育者

現在の埼玉県の豪農に生まれ、幼い頃より四書五経や「日本外史」を学ぶ。
一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍となると、栄一は幕臣となった。
その後、大蔵省に入省して国立銀行条例制定等に携わる。

大蔵省を辞した後に、日本最古の銀行「第一国立銀行」を1873年(明治6年)に創設。
日本最初の株式会社として、東京株式取引所創設時より同市場に上場。
(改組や合併により、第一国立銀行→第一銀行→帝国銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行、と変遷する)

第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、生涯に約500もの企業、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力しました。
その功績を認められ、ノーベル平和賞の候補にも2度選ばれました。

2019年4月9日に、令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となることが決定。
令和3年(2021年)に放送予定のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公が渋沢栄一と発表され、若手俳優の吉沢亮が主演を務める。

率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである。

ピーター・ドラッカー(経営学者)

生きる極意

一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。


世の中の事はすべて心の持ちよう一つでどうにでもなる。


礼儀ほど美しいものはない。


大なる立志と小さい立志と矛盾するようなことがあってはならぬ。


人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。


心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。


総じて世の中のことは、心のままにならぬことが多い。


地位と名誉は、それに付随する慎みのあることを忘れてはならない。


道徳を欠いては、決して世の中に立って、大いに力を伸ばすことはできない。


また雨ざらしにされるのは、ごめんだね。(存命中から銅像が作られる機会が多く、そういう話が出るたびに)


もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である。


人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。


全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。


どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。


ただそれを知っただけでは上手くいかない。好きになればその道に向かって進む。もしそれを心から楽しむことが出来れば、いかなる困難にもくじけることなく進むことができるのだ。


できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である。


自分が信じぬことは言わず、知った以上は必ず行うという念が強くなれば、自然に言語は寡黙になり、行為は敏捷になるものである。


男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ。


ことに望んで感激すれば、おのずからやる気が出て奮い立つのだ。


死ぬときに残す教訓が大事なのではなく、生きている時の行動が大事なのだ。


信用はのれんや見た目から得られるものではなく、確固たる信念から生まれる。


富者をうらやんでこれを嫉視するのは、自分の努力の足りぬ薄志弱行のやからのやることだ。幸福は自らの力で進んでこれを勝ち取るのみだ。


夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。


大金持ちになるよりも、社会万民の利益をはかるために生きる方が有意義である。


日本では人知れず善いことをするのが上である。自分の責任はもちろん、他人の責任までも追うことが武士道の真髄とされる。


不言実行と共に、また有言実行も大いによろしい。


長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。


私は他人が掛物とか屏風とかその他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。


四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ。


論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。


我が人生は、実業に在り。


たとえ自分はもっと大きなことをする人間だと自信していても、その大きなことは片々たる小さなことの集積したものであるから、どんな場合も軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意をこめてその一事を完全にし遂げようとしなければならぬ。


科学の進歩から戦争を昔日よりも二重にも三重にも激烈惨たんたらしめております。一国の利益のみを主張せずに政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せん事を、諸君と共に努めたいのであります(1928年ラジオでの発言)


言葉は禍福ともに引き起こす入口のようなものだ。ほんのちょっとした言葉であっても、軽率に口にしてはならない。


言葉は真心を込め、行いは慎み深く、事を取りさばき、人に接するには必ず誠意を持って臨め。


国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。


最も重んずべきは信である。信を守らねばたちまち失敗す。


私が若いころ故郷に阿賀野九十郎という七十いくつになる老人がいた。朝早くから夜遅くまで商売一途に精を出していた。あるとき孫や曾孫たちが集まり、おじいさんもうそんなにして働かなくてもうちには金も田地もたくさんできたじゃないか。伊香保かどっかへ湯治に行ったらどうですかと勧めた。九十郎老人曰く「俺の働くのは俺の道楽で、俺に働くなというのは道楽をやめろというようなものだ。まったくもって親不孝な奴らだ。金なんて俺の道楽の粕なんだ。そんなものはどうだっていいじゃないか」と。


私は他人が掛け軸とか屏風とかその他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。


事を成し、物に接するには、必ず「満身の精神」をもってせよ。ささいな事であっても、いい加減に扱ってはならない。


常に愛国忠君の気持ちを厚く持ち、公に奉ずることを忘れてはならない。


身体はたとい衰弱するとしても、常に学問を進めて時代に遅れぬ人であったならば、いつまでも精神に老衰ということはなかろうと思う。


人間はいかに円くとも、どこかに角がなければならぬ。


人間は磁石のようなもので、十分に能力があり、人格が立派であれば、磁石が鉄を吸いつけるが如く、自分の力を以て仕事や地位を吸収し得る。


世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。


世の中の人が全て常に衷心に忠如の精神すなわち仁を絶たず、これを実行していけば、世の中のことは円滑に進行し、人々平和に生活してゆけるものである。仁者にてきなしとはすなわちこのことなり。


得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、常操をもって道理を踏み通すように心がけて出ることが肝要である。得意時代と失意時代とに拘わらず、常に大事と小事とについての心掛を緻密にせぬと、思わざる過失に陥りやすいことを忘れてはならぬ。


入るを計りて、出るを節す。


富貴に驕ってはならない。貧賤を憂えてはならない。ただ知識を磨き、徳を高めて、真の幸福を求めようとすること。


無欲は怠慢の基である。


無欲は美徳ではなく、むしろ人を怠け者にする。


目的には理想が伴わねばならない。その理想を実現するのが、人の務めである。


立志の当初最も慎重に意を用うる必要がある、その工夫としてはまず自己の頭脳を冷静にし、しかる後自分の長所とするところ、短所とするところを 精細に比較考察し、その最も長ずる所に向かって志を定めるがよい、またそれと同時に、自分の境遇がその志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要である。

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仕事

富を成す根源は何かといえば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。論語とそろばんは両立する。 (論語:倫理、そろばん:金勘定)


商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだ。


信用はそれが大きければ大きいほど、大いなる資本を活用することができる。世に立ち、大いに活動せんとする人は、資本を造るよりも、まず信用の厚い人たるべく心掛けなくてはならない。


たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。


金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。


真似をするときには、その形ではなく、その心を真似するのがよい。


人を選ぶとき、家族を大切にしている人は間違いない。仁者に敵なし。私は人を使うときには、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。


一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。


限りある資産を頼りにするよりも、限りない資本を活用する心掛けが肝要である。限りない資本を活用する資格とは何であるか。それは信用である。


数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。


有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だがこれは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら資本ができぬはずがない。愚痴をこぼすような人は、よしんば資本があっても大いに為す人物ではない。


余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする。


世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。


どんなに「ふるまい」が上手でも、小さな仕事を軽視する人を仲間にしたくない。


一個人のみ大富豪になっても社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばどんなものであろうか。いかにその人が富みを積んでもその幸福は継続されないではないか。故に国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。


一人が巨額の財産を築いてもそれが社会万民の利益となるわけでもないし、ようするに無意義なことになってしまう。無意義なことに貴重な人間の一生を捧げるというのはばかばかしいかぎりで、人間と生まれた以上はもう少し有意義に人生を過ごすべきであろう。実業家として立とうとするならば、自分の学術知識を活用し、主義に忠実に働いて一生を過ごせば、そのほうがはるかに価値のある人生である。


経済に国境なし。いずれの方面においても、わが知恵と勉強とをもって、進むことを主義としなければならない。


事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。


重役は常に、会社の財産は他人の物である。といふことを深く念頭に置かねばならぬ。総て重役が其の地位を保ち其の職責を尽しているのは、必ず多数株主の希望に依るものであるから、若し多数人の信任が無くなった際は、何時でも其の職を去るのが当然のことである。


信用はのれんや見た目から得られるものではなく、確固たる信念から生まれる。


新規に受注した大工事には自然と注意が払われる。しかし日々の小さな工事こそ注意を怠ってはならない。


世の中の得を思うことはよろしいが、己れ自身の利欲によって働くは俗である、仁義に欠けると、世の中の仕事というものは、段々衰微してしまうのである。


老人が懸念する程に元気を持って居らねばならぬ筈であるのに今の青年は却て余等老人から「もっと元気を持て」と反対な警告を与へねばならぬ様になって居る。危険と思はれる位と謂うても、余は敢えて乱暴なる行為や、投機的事業をやれと進めるものではない。堅実なる事業に就て何処までも大胆に、剛健にやれといふのである。


論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。


物の道理

真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。


自分が手にする富が増えれば増えるほど、社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない。


成功には嫉妬が伴い、成功者の多くは老獪と目されやすい。地位と名誉には、それぞれ付随する慎みがあることを忘れてはならぬ。


他人を押し倒してひとり利益を獲得するのと、他人をも利して、ともにその利益を獲得するといずれを優れりとするや。


多く聞き、多く見て、その中より最も善きものを選び、これに従うて行作せねばならぬのは中人の常なり。されどあまり見聞のみを博くしても、その人に取捨の見識がなければ、選択の見当がつかなくなって迷うようになるものだ。


そもそも多能は聖人の本色ではないとしても、多能なるくらいの種々の経験ある人にあらざれば真正の聖人となり得ざるべし。


一家一人の為に発する怒りは小なる怒りにて、一国の為に発する怒りは大いなる怒りである。大いなる怒りは、国家社会の進歩発展を促す。


人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。


大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは決して進むべきではない。空論に走り、うわべだけを飾る国民は決して真理の発達をなすものではない。


道は誰でも行うことができる。人はみな道を行うだけの力がある。ただその道と力との大きさに差があるだけである。


お金をたくさん集めて、たくさん使うことで社会を活発にし、経済の発展を促すのがよい。お金持ちはよく集めると同時に、よく使わなければならない。


我も富み、人も富み、しかして国家の進歩発達をたすくる富にして、はじめて真正の富と言い得る。


人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。


ただ悪い事をせぬというのみにては、世にありて、何も効能もない。


全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。


「智」「情」「意」の三者が権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だと考える。


すべて物を励むには競うということが必要であって、競うから励みが生ずるのである。いやしくも正しい道を、あくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。


ただ順逆を立つる人は、よろしくそのよって来るゆえんを講究し、それが人為的逆境であるか、ただしは自然的逆境であるかを区別し、しかる後これに応ずるの策を立てねばならぬ。小事も、積んでは大事となる


また習慣はただ一人の身体にのみ付随しているものでなく、他人に感染するもので、ややもすれば、人は他人の習慣を模倣したがる。


むやみに学科ばかり詰め込めば学問の食傷を起こす。


よく働く人を多く出して国家の利益を計るほうが万全の策であると思う。一人が巨額の財産を築いてもそれが社会万民の利益となるわけでもないし、ようするに無意義なことになってしまう


完全なる富は完全なる信念から生じなければならない。


金はボロに包んでも金だが、石は錦に包んでも石。


銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。


個人の富はすなわち国家の富である。


私は、実業家の中に名をつらねながら、大金持ちになるのは悪いと考えている。人情としては誰でも他人より多く蓄積したいと苦心するのが普通であるが、この多いということには際限がない。極端に考えて、もし一国の財産をことごとく一人の所有物としたら、どういう結果をきたすであろう。これこそ国家の最大不祥事ではあるまいか。このように際限のない欲望に向かって欲をたくましくする者が続出するよりも、むしろ知識ある、よく働く人を多く出して国家の利益を計るほうが万全の策であると思う。


人を見て万人一様なりとするには一理ある、万人皆同じからずとするのもまた論拠がある。


人情としては誰でも他人より多く(お金を)蓄積したいと苦心するのが普通であるが、この多いということには際限がない。極端に考えて、もし一国の財産をことごとく一人の所有物としたら、どういう結果をきたすであろう。これこそ国家の最大不祥事ではあるまいか。


世人は、一も二もなく彼を順境の人と思うであろうが、実は順境でも逆境でもなく、その人自らの力でそういう境遇を作り出したに過ぎない。


世人より投機者流と見られ、世間の信用を失うようにならぬとも限らぬ。すなわち一時は利益を得ても、永い年月の中には、大いに損をすることになるべし。


明治維新当時の財界における三傑は三井の野村利左衛門(三井財閥の創設者)と鉱山王の古河市兵衛(古河財閥創設者)と天下の糸平こと田中平八を挙げなければならない。

人間関係

交際の奥の手は至誠である。理にかない調和がとれていればひとりでにうまくいく。


お前は自分の立場に忠実なのは結構だが、同時に恕、つまり相方の立場も理解してやるという広い気持ちを持たねば、世の中に円満に処していくことはできない。


交わってためになる友を近づけ、損になる友を遠ざけ、かりそめにも己にへつらう者を友としてはならない。


人に接するには、必ず深い敬意を持ってせよ。宴楽遊興の時であっても、敬意と礼を失ってはならない。

問題解決

反対者には反対者の論理がある。それを聞かないうちに、いきなりけしからん奴だと怒ってもはじまらない。問題の本質的な解決には結びつかない。

家族

親から子に対して孝を励めよと強ゆるのは、かえって子を不孝の子たらしむるものである。

 

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