ビートたけしの名言!時代を作る男の潔い矜持

ビートたけしさんの名言を集めました。

漫才ブームとお笑い界を引っ張り、映画監督としても世界から評価される北野武さん。

時代を作る男の潔い言葉に、現実を見ることと自分の中に芯を持つことの大切さを感じます。

ビートたけしのプロフィール

名前 ビートたけし
本名 北野 武(きたの たけし)
愛称 たけちゃん、たけし、殿、世界のキタノ
生年月日 1947年1月18日(77歳)
出身地 東京都足立区島根
身長 168cm
血液型 O型
学歴 明治大学工学部(特別卒業認定)

人生


何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ。


生まれながらにして、死ぬときの対応の仕方を模索していくのが、人生のような気がする。


生きていればいいじゃんってこと。何もしないで死ぬのが一番嫌だな。


人生を楽しむ秘訣は早めに死ぬこと。


生きてるだけで幸せだっていうかさ。生きてるからガックリできんだもん。


今の社会は、人生とは何かとか、人間の生きる意味は何かみたいなことを言い過ぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんか絶対にわかってないくせに。


勉強するから、何をしたいか分かる。勉強しないから、何をしたいか分からない。


最後まで押し通せなかったらやさしさではない。途中でくじけるなら悪人になればいい。優しさは根性です。


鳥のように、自由に空を飛べたら、魚のように泳げたら、なんて思わない。自由を楽しむ生き物などいない。生きて行く事は、つらく、悲しく、目的も分からないものだ。


未来というのは結局この一瞬一瞬の積み重ねなんだ。この今の延長に未来がある。遠い未来もこの瞬間の積み重ねなんだよな。


振り返ればおいらの人生、山あり谷ありだったけど、その両方があったからこそ今があるんだよ。


人生で楽しいことばかりじゃない。苦しいと思うことも生きている証だと思えば楽しめる。


欲と現実には、ずれというのが必ずある。今欲しいものというのはいっぱいあるけれど、それがいざ手に入るときには、もうその時の自分じゃない。



生きざま


(仕事の取り組み方について)一生懸命やったことをみんなに分からせるようなわざとらしい行為は良くない。
アイツ遊んでんなという風に見えるけど、よく見たら努力しているというようなそういう人間になって欲しい。


(成功の秘訣は)あるとすれば、どこに行ってもトイレ掃除を実践していることぐらいでしょうか。


我々みたいのが天才のふりをするためには、捨てなきゃいけないものが一杯あるんだよね。


(1994年のバイク事故で)生死の境をさまよった事故以来、
生きることに対する執着なんかなくなったね。


世間一般ではアニメオタクとかフィギュアオタクとか、秋葉原をうろついてるやつらを何か差別的に指してるみたいで困るんだけど、
ひとつのことにこだわって情熱を傾ける人たちをオタクと呼ぶとしたら、オタクになれるのは実にすごいことだと思うよ。


何に興味あんの?って言ったら、やっぱ自分に一番興味あるしさ。
何に腹が立つ?って聞かれれば、やっぱ自分だしさ。誰が一番好きかって言えば、これも自分自身なんじゃないかね。


側近を作るとか、若い奴と仲良くしようとか、そういうのはもう愚の骨頂。


やるべきことを普通にやる。それでいいんじゃないですか?こだわりってそういうことでしょ。


へりくだった心をもって互いに相手を自分より優れた者としなさい。


努力ってのは宝くじみたいなものだよ。
買っても当たるかどうかはわからないけど、買わなきゃ当たらない。


お金がないことを、そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、なぜ世の中の人は気づかないのだろう。「武士は食わねど高楊枝」という気概はどこへ消えたのか。うちは貧乏だったけれど、母親は商店街で投げ売りをしているような店には、絶対に並ばなかった。どんなに遠い店でも、1円のお客を大切に扱う店に通っていた。


人は何か一つくらい誇れるものを持っている。何でもいい、それを早く見つけなさい。夢を持て、目標を持て、やればできる。そんな言葉に惑わされるな。


タイミングは自分で作るんだよな。


思う通りにやって駄目だったら それだけのことって納得できるけど、 他人の言うことを聞いて駄目だったらどうにもならないよ。


将来はさ、将来はみんな不安なんだよ。でもそれをあえて出さないほうが、 男としては、かっこいいと思わない?


一生懸命アイディアをひねって、白い目で見られよう。


俺はまだ、何かに喧嘩を売っている。


オレはまだまだ変わっていくよ。ドキドキしたいからね、自分に。


僕はお金が落ちてても拾わない。そんなことで運を使いたくないから。


生きるにしろ死ぬのにしろ、この世の人間ってのは根本的な意味がないから生きていられるんだと思うね、つくづく。存在理由なんてないの。人間の生き死にと世界があるってこととはまるっきし関係ない。


金より芸が欲しい、権力より感性が欲しい。


俺も、生きることに興味がないなんて言いながら、いざ死神があらわれたら、こう言ってしまいそうな気がする。「あと1本だけ映画撮らせてくれねぇか」人間、歳を取るとずうずうしくなる。


何かを追い続けたり、誰かを幸せにしたり、生きるってエネルギーがいるよな。未来を創っていくにも、エネルギーがいるからさ、ちゃんと考えておかなくちゃ。いいこと言っちゃったかな?


金、とにかく金を稼げ。それで何でも買ってみろ。愛、恋、友情、幸福、みんな買えたか?それから、金で買えないものを探せ。


どうせ死ぬんだから、せめて生きている間は楽をしよう、という考えは僕の場合逆でさ、どうせ死ぬとき楽になるんだから生きている間はとことん辛く生きよう、というのが僕の考え。


(つまみ枝豆さん数百万の札束が入った紙袋を渡して)そのベンツ買えよ。本当にその車乗りたいなら今買わなきゃダメだよ。返せるときに返してくれればいいから。


世代が違うと話が合わないなんて言うのは間違い。話が合わないんじゃなくて、話を引き出せない自分がバカなのだ。


俺、海で泳いだことないんだよね。だってほらコースもゴールもないでしょ。


幸せってのは、生きていくうえでの鍵だから。


おいら、上に立つ人間っていうのは完全に孤独じゃなきゃいけないって思う。


世間では妙にありがたがっている部分もあるけど、若さって俺は大した特典ではないと思う。年齢は関係なくて、無茶をできるスピリットを持っているかが問題。


世間を楽しませているから自分も楽しむべきだって言うんじゃなくて、楽しませる域にいることが根本であって、一番凄いことなんだ。それ自体が贅沢であってだな、それに加えて自分が贅沢するってのは余分なことなの。


おれがいろんな冒険をしてるように見えるのは、映画があったり、テレビがあったり、役者があったり、逃げ場所がいっぱいあるからですよ。こっちでいじめられたら、あっちの穴に逃げちゃおうと、いつも考えてる。それが冒険に見える。


若いのが作法を学ばないのは、手本になる大人がいないからだ。少なくとも男にとっての作法は、ある種の憧れだったり、「あのときのあの人は格好良かったな」という記憶だ。


いまのたった今の時点で努力していない奴らは死ぬときに必ずオロオロするんじゃないのかって思う。
それまで何もやってきていないんだから。なにひとつ自分に満足していないんだよね。駄目な奴は。じゃあお前はどうだって言われると、いったい何をしてきたんだろうかって考えると、もう愕然としてくる。強烈なんだ。その問いかけは。どんなに素晴らしい人でも、それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、これをしてきたって言える人間はいない。やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。だからやっぱり、人間自分の目の前にあることを一生懸命やるしかない。


自分はまだ未熟だと言い訳にしてる奴が多いが、君達は完璧な人を見たことあるのか?俺はここまでの人生で、まだ出会って無いし、これからも出会わ無いだろうよ


もう一回、人生をやり直せたとしても、苦しくても何でも、熱い人生を選ぶ。


年齢は関係なくて、無茶を出来るスピリッツを持っているかが問題。


人生に幸せなんて求めること自体勘違いなんだよ。


場所を変えることは自分を変えることにはならないんだよ。どこにいても自分だけの問題で、周りの景色なんかどうでもいい。


ささやかな幸せを確保するにも、めちゃくちゃ努力しなきゃだめだよ。生半可なことじゃないよ、道には罠がいっぱい仕掛けられてるんだからさ。


人は自分自身しか頼れない、すべての鍵は自分の中にあるの。


生きることは大切だけど、人生何十年っていっても、それ以上に激しく動いたほうがいい。
だから、ちょっと嫌なことがあると、急に仕事したくなる、本書いたり。たまに、本の中にそいつの悪口入れたり。



人生を楽しみたかったら、他人に期待しすぎちゃいけないよね。


日本人はどうしても、人がやってくれるのを待つんだね。でも、自分で動かない限り、やっぱり周りは動かないんだ。


「幸せ」というのは瞬間的なものだからな。その瞬間的な幸せを得るために、永続した苦労があるわけだから。


何のために働くのかっていうと、生きるためだと思いますよ。じゃあ何のために生きるんですかって言われたら、死ぬためでしょう。


逃げるすべばかり考えてないで、少しは向かって行けって。


いつも不安で不安で仕方がない。おれほど憶病者はいない。開き直らないとむちゃできない。


ガンバってガンバって、出来ないことが出来るようになる。こんなワンダフルなことはないぞ。


強さって、鈍感さかなって思う時がある。あの人は強いから全然くじけないっていうけど、それは鈍感なんじゃないかって思う時あるね。


結局、人には持って生まれたその人なりの生き方というものがあって、他人が変えられるものじゃないんだね。どれがいいというんじゃない。おいらにはおいらの生き方があって、方向を変えるわけにはいかないんだよ。


まだまだ新しいことやってみたいんだよね。自分はこうなりたいって思う、その気持ち、俺はごまかさない。それは自分を変えるチャンスだから。明日を変えるのは、今日の自分なんだ。


芸人っていうのはプレッシャーなくなったらダメになるんだよね。舞台慣れしてくると、本人はおもしろくやったつもりでも客には新鮮味が感じられない。余裕持っちゃったらダメ。プレッシャーはいやなもんだけど、それがまた快感に変わるんだよ。


オレはまだまだ変わっていくよ。ドキドキしたいからね、自分に。


新しくやりたいことを見つけられた人は、相当運がいいと思う。


人の成功を喜べる人は幸せだ。


人間の知恵や創造力は、壁や障害があってこそ豊かに発揮される。分厚い壁が目の前にあれば、子供は放っておいても、なんとかしてそこから自由になろうともがく。壁をぶち壊そうとする奴もいれば、壁の下に穴を掘ろうとする奴もいるだろう。壁の内側に、誰も気づかなかった自由を見つける子供もいるだろう。知恵や創造力で壁を乗り越えるところに、自由の喜びがある。何でも自由にやっていいよという世界では、知恵も想像力も働かせる必要がない。最近の子供にはやる気がないというけれど、それはそういうことの当然な帰結なのだろう。


転機がいろいろあるってことは生きていく、進化している証拠なんで、ありがたいと思ったほうがいいよね。チャンスていうか。脱皮だと思ったほうがいい。新しい蚕が繭になって羽化するまで、飛び立つまでの段階と思えば。実にいまいいとこ来てると思ったほうがいい。


プロレスのリングのように、反動を付けなきゃ前に進めない。よくないことが起きた時は、前に行く過程であると考える。だから酷い目にあった時は、いいことが起きる前兆だとしか思わない。



仕事


(ライブに)客が来るうちは花だな。客が来なくなって辞めるのはいいんだよ。
でも自分の生活が安定したから辞めるっていうのは泥棒だよね。


どんなに売れても、300人、400人の客前で上がらないようなヤツは芸人として感受性がないだろ。
俺、今もすごい上がり症だしな。


立派な師匠って言うのは、何百人もの弟子をみんな食わせた。芸人としてはやっていけないような奴まで食わせている。そういう師匠はやっぱり凄いと思うんだ。


こんな俺でも相方がいたからずっと芸能界やってこれた。これが別の相方だったら俺はすぐに終わっていたと思う。


芸人だったら相手のレベルにチューニングを合わせてやって、喋れるようじゃなきゃしょーがねーよ。


稽古を一年やったやつと、十日舞台に出た漫才師がいたとしてさ、その実力の差っていうのは、舞台に出た奴が勝つに決まってるわけだから。稽古は駄目なんだよね。現場に出ないと。


芸人ってのはおかしなもんで、客がいいと実力以上の芸を見せたりできるんだよ。


芸人の実力が人気に追いついてきて『いい芸してるね』『技術があるね』なんて批評されはじめた頃には、もうブームは終わりに向かってるってことなんだよな。


「くだらねえ」ってのは、お笑いにとって褒め言葉で「くだらねーな」って言われるとありがたいんだ。


バカヤロー。どんなにネタに困っても、自分から「一発で終わっちゃう」なんていっちゃダメだよ。


芸のためなら人なんてどうだっていい。


役者もそうだと思うけど、客ものって自分ものってはいても、それを見ているもう一個の目はないとダメなんだ。


いい漫才をしているときは、何をしゃべったか憶えてなかった。いい映画を撮っているときは、神経がピリピリしてくる。


いい絵を描いているときは、よだれが垂れる。集中しているかどうかってことなんだろうが、では、どういうときに集中するかっていうと、これがよくわからない。自分でコントロールできるものではないようだ。わかるのは、集中しているときは、脳みそを全部使っている感じがするってことだ。


映画


他の映画監督が使っているような、言葉は悪いけれど、見え透いたテクニックを使うのがどうにも照れくさい。漫才とかコントで、わかりきったオチは言いたくないというのと同じ話だ。


作風が固まってしまったら、あえて捨てなきゃいけないかなと思う。安定した成功なんて、この歳になったら当たり前のことなのだ。「今度の映画も面白かったね」なんていわれても、そう無邪気には喜べない。やっぱり、誰も撮ったことのない映画をつくりたい。


俺は俺自身のためにい映画をつくる。自分のために撮って、あとは「アンタも見る?」と聞くだけだ。映画監督なんてやってる人は、たいてい映画が好きなわけだけど、その好きにも2種類ある。
映画監督が目的になっている人と、監督が手段に過ぎない人だ。監督が手段という人にとって、映画は表現手段のひとつだ。だから、自分の映画を客観的に見る目を持っている。


俺は怒ったり、命令したりはしない。まずスタッフに聞く。「こういうふうに撮りたいんだけど駄目かな?」「このシーンはどうやって撮ればいい?」最終的には自分のやりたいようにやっているのだが、もしかしたらもっといい意見が出るかもしれないから、まず聞くんだ。


仕事


成功の秘訣は、いちばんなりたいものじゃなくて、その人にとっては二番目か三番目の、違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、今すぐにそれをできる能力はないから違うことをやってます。それぐらい自分を客観的に見られるやつのほうが、成功する可能性は高い。


大学になんか入らなくたって、『一流』と呼ばれる仕事人はたくさんいる。大工になったっていいし、コックや寿司職人になったっていい。


おそらく脳には、節電モードみたいなものがついていて、ちょっと慣れてくると、すぐに楽をしようとする。絵でいうなら、描き慣れるということがある。


たとえば、ゴリラの絵を描くとする。初めてだから上手く描けないんだけど、絵としては悪くない。ところが、調子に乗って同じゴリラの絵を何枚も描いていると、だんだん手が慣れてきて、すらすら描けるようになる。そうなると、絵としてはつまらない。描き慣れた絵は、見てもあんまり感動しない。


いろんな仕事をやろうと思ったら、やっぱり基本がなきゃダメなことは多い。


人間関係


他人への気遣いで大切なのは話を聞いてやることだ。人間は歳を取るとどういうわけかこれが苦手になるらしい。むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。だけど、自慢話は一文の得にもならないしその場の雰囲気を悪くする。それよりも相手の話を聞く方がずっといい。


作法というのは、突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。具体的な細かい作法をいくら知っていても、本当の意味で、他人を気遣う気持ちがなければ、何の意味もない。その反対に、作法なんかよく知らなくても、ちゃんと人を気遣うことができれば、大きく作法を外すことはない。駄目な奴は、この気遣いがまったくできていない。人の気持ちを考えて行動するという発想を、最初から持っていないのだ。


料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。たとえ知っていたとしても、一応ちゃんと聞くのだ。そうすれば、専門家というものは、きっとこちらの知らないことまで話してくれる。井戸を掘っても、誘い水をしないと水が湧いてこないように、人との会話にも誘い水が必要なのだ。


友情というのはこっちから向こうへ一方的に与えられるもので、向こうから得られる何かではない。友情とは自分の相手に対する気持ちだ。


人を気持ちよくさせる方法ってたくさんあるけど、挨拶ってその中の一つだよな。


男の嘘は、いってみれば「女の人の化粧」と同じだから。女の人は化粧して嘘ついてるわけだからさ。それに男の人は女の人と付き合う時は、言葉やなんかで化粧してるわけだから。


言葉の壁なんていうけどさ、想いがちょっと通じただけで、その人との距離も縮まったような気がする。そんな経験あるでしょ?難しく考えなくて、いいんだよ。


もうお前らも芸能界にいられなくなっちゃってごめんな。土方やってでもお前らを一生養わなきゃなぁ。


あいつ、裏切った、裏切ったって心の中に毒持って生きてくより、相手にいいことしてやったっていう感覚でいるほうがいいんだ。
だって、裏切りなんてこれからもじゃんじゃんあるんだから。それをいちいち自分の問題にして抱え込んでたら大変なことになっちゃうもん。


変な言い方だけど、自分のために死んでくれる人間が何人いるよりも、そいつのためなら命をかけられるって友達が1人でもいる方が、人間としては幸せだと思う。


ひとこと


ダンカンバカ野郎。


全部まとめてエンターテイメント。


酒は身体にいいよ。オレなんか一杯飲むと震えが治る。


卑怯者には卑怯者の生き方がある。


お前俺死んだって噂流したろ?


いいか。人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟をしろってことだからな。


人は気づかぬうちに乾いているんだ。人間は何もしなくても皮膚や呼吸から水分が飛んでいく。その量は一日900ミリリットルだという。水よりも人の体に近い水。イオンサプライ ポカリスエット。



生きる事に理由をつけるのは構わない。あそこの蕎麦が食いたいとか、来週のドラマの続きを見たいとか。でも、死ぬことに理由をつけちゃいけねぇんだ。


人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。


スポーツ新聞に「たけし、再起不能か?」なんて書かれた、あの原付バイクの事故からもう12年の歳月が過ぎている。あの事故を境にして、生きていることに、あまり興味がなくなった。あの事故でわかったことは、運命なんてものは、自分でどうにか動かせるものじゃないということ。どんな運命が待っていようと、それをそのまま受け入れるしかない。


いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった。(逸見政孝の告別式で)


失恋


世界に何十億と女がいるのに、一人の女に振られただけで、そんなに落ち込んでどうする。もっと素晴らしく、お前を愛してくれる女の子は一杯いる。めぐりあってないだけだ。


ふりむかない彼女に努力するのはやめよう。恋する自分に酔ってはいけない。夢中で書いた手紙も、プレゼントも何の力も無い。彼女は何処にでもいる、普通の女の子で、ただ、君が好きではないだけだ。



この前実家いったらさ、母親が「タクシー使って病院行くから金よこせ」ていうんだよ。仕方ないから金渡したらさ、あのばばあ老人手帳もってタダ乗りバスしてやがんの。バスの中からニコニコ笑って手振ってやがった。一枚上手だよな。


俺ほどマザコンいないんじゃないかな、さみしくなるよなぁ。


30過ぎて親を許せないやつはバカだ。


マイホームパパだかなんだか知らないが、いつもニコニコ笑っていて、子供の気持ちがよくわかる、物わかりのいい父親が理想だなんてことになった頃から、ども教育がおかしくなった。駄目だものは駄目なんだと父親が教えてやらなきゃいけない。父親が子供に媚びを売ってどうする。結局は自分が可愛いだけのことなんじゃないか。父親は子供が最初に出会う、人生の邪魔者でいいのだ。子供に嫌われることを、父親は恐れちゃいけない。


「体罰反対。何事も話し合いで」という理想論もいいんだけど、体罰教育をしなかった結果、教師やオヤジなどの大人を怖がらないどころか逆になめ切るだけのガキになってついには教師もオヤジも子供からぶっ飛ばされるという世の中になってしまったんだよ。


仕事ができて、家庭でもいい父親なんてことはありえないよ。


努力すれば、きっとなんとかなるって、そんなわけないだろう。一所懸命やればなんとかなるほど世の中甘くないってことは、親とか周囲の大人が一番知ってんじゃねえか。必死にやってもうまくいくとは限らなくて、どうにもならないこともある、それが普通で当たり前だってことの方を教えるのが教育だろう。


自分の子供が、何の武器も持っていないことを教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。それじゃ辛いというなら、なんとか世の中を渡っていけるだけの武器を、子供が見つける手助けをしてやることだ。それが見つからないのなら、せめて子供が世の中に出たときに、現実に打ちのめされて傷ついても、生き抜いていけるだけのタフな心に育ててやるしかない。


親父が遊んでくれたのは、初めて江ノ島に海を見に行った、あのときだけ。それが親父との唯一の…まあ、幸せな思い出だな。だからかな、俺の映画に海のシーンが頻繁に登場するのは。


今の子供は夢を持てといわれつづけ、個性が大事だといわれつづけていて息苦しさを感じている。夢なんてそうそうあるものではない。なくたっていいんだと言ってあげられる人がいない。


必死にやってもうまくいくとは限らなくてどうにもならないこともある。
それが普通で当たり前だってことの方を教えるのが教育だろう。


自分の子供が、何の武器も持っていないことを教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。


お前にはその才能がないんだと、親が言ってやるべきなのだ。


子供の教育で大切なのは、タガのはめ方と、外し方なのだ。タガを外しすぎれば、桶はバラバラになってしまう。タガをきつくはめすぎても長持ちしない。


金のことでつべこべ言うと、母親にこっぴどく叱られたものだ。誰だって、金は欲しいに決まっている。だけど、そんなものに振り回されたら、人間はどこまでも下品になるというのが俺の母親の考えだった。貧乏人のやせ我慢と言ったらそれまでだが、そういうプライドが、俺は嫌いじゃない。


人の性


人間のやることは不思議で、不条理なのだ。俺だって、アフリカで何万人もの人が飢え死にしているっていうのに、映画なんか撮っている。


貧すれば鈍する


貧乏を貧乏の中に封じ込めて、その中で金を回すという商売が多すぎるんだよ。服でも食べ物でも、安売りの品だけを買ってたり、安くて早くてという所に並んでばかりだと、絶対上に上がれないよ。


貧しい生徒ってのは、自分よりさらに貧しいやつらをバカにするんだよ。


日本人はいつからこんなにマヌケ、せこくなったのか。死体から何かとったり空き巣に入ったりさ、ああいうの撃ち殺していい。


日本人の矜持


日本の文化というのは「貧」の文化なんだ。貧乏だからいろんな知恵だとか、一種の道徳律みたいなのが出てきた。「貧」がなければ品がなくなるのは当然でね。日本を取り戻す特効薬は「貧」しかない。


昔は、日本人には「降りる」っていう美意識があったんだけどね。五人集まって、四つしかお菓子がなかったとき、俺いらないよって先にいう誰かが必ずいたんだよ。ところがいまや、五人が五人、あわよくば一人で二個も三個も食おうって時代になっちゃった。


感情というのは抑えるのが当然なのに解放するのがいいって風潮になってしまった。


戦争


大体、平和とか反戦とか口にする奴というのは自分は安全な所にいて、高みからものを見ているに過ぎない。もし戦争反対と言うなら、自分が殺されても構わないという覚悟ができなければ嘘だね。


日本人が表面的な、綺麗事で戦争批判をしても当事者からしたら「何言ってやがるんだ」という話でさ。


テロでは、5000人が死んだわけだけど、それを数だけで語ることは怖いこと。



昔から「運も実力のうち」なんて言葉があるとおり、おいらも所詮人間の成功なんて運があるかどうかに尽きると思ってる。


(天才とは)運と才能と、あと努力…。ごく普通のことを人一倍やった人だよ。そして運は必要だよ。



夢を持て目的を持て、やれば出来る。こんな言葉に騙されるな。


夢なんてもう、急にどっかに現れたり消えちゃったりするんだけど、目標って上がっていけばそこにあるって確信しているからね。『夢は夢でしかないよ』って言いたいね。


夢は、夢。目標とは違うんだけど、勘違いしてる奴が 「夢をもっていきなきゃ」なんてごちゃごちゃにしている。


今の社会はさ、子供に夢を持てって言うよね。でも、その気になった子供が結局悲惨な現実に遭ったりする。いつから、みんな強制的に夢を持たされることになったんだろうと思うよ。


現実


「君には無限の可能性がある」って、嘘つけ。人間はなれるものにしかなれやしない。


よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。


(アウトレイジについて)人間はあまりに痛かったり暴力的過ぎると、つい笑ってしまうことがある。笑わせる気は全然ないのですが、極限状態で笑うしかないという部分のある映画。


数学は哲学です。すべての事象・物事はすべて数字で説明できます。生きるもの全ては数字に支配されている。


現代社会を生きている人間のほとんどが、携帯電話とインターネットによって、ある意味で、奴隷化されていることに気づいていない。それらを自分の意思で使っていると誰もが思っている。


テレビは日本人をかなりダメにしたと思うね。でも大衆をダメにするものしか、たぶん儲からないんだ。


情報って誰が出してるんだってことですよ。広告をはじめ、いろんなところが、次はここに行かないといけないだとか、流れを作っていくわけですよ。それにみんな家畜のように、檻から檻へと動かされている。


「人生はカネと女」ってはっきり言ってしまおう。そうやって欲望に正直に生きれば、日本人の顔も少しは活力ある顔に戻るんじゃないかな。


下町の寅さんみたいな映画、みんなうそだと思うもの。住人が助け合ったわけでもないし、ホント、ひどい、むちゃくちゃだったもの。


その国の経済発展の度合い、進化の段階ってのは、GNPとかひとり当たりの年間所得額なんかで見るよりも、大衆演芸の進化のレベルで見るのが手っ取り早くてわかりやすいって気がするね。


戦争が終わって、人は自由になった。だけど、自由になった個人は、自由になった自分にものすごい不安を抱いている。
なんでも自由にやっていいんだよと言われた途端に、自分が何をしたらいいかわからなくなってしまった。だから、誰でもいいからリーダーを探してくっついていこうとしたり、なんとしてでも友達の輪の中に入れてもらおうとする。


物の道理


人間は比べるものがないとダメなんだよ。南の島はいいけど、冬にハワイに行くのが楽しいのは、寒い日本を離れていくから。サモアの人がハワイに行っても、嬉しくもなんともない。


ワールドカップを観ていて相変わらず「感動をありがとう」なんて言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。


クジラの保護を叫ぶんだったらまず動物園の動物の開放が先だろ。


本当の感動は、やった奴しか分からない。


鳥のように自由に空を飛びたいというのは勝手だけど、鳥が飛ぶ為に何万回翼を動かしているかよく見てごらん。


ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!(24時間テレビ への出演オファーに対し)


「死刑=最高刑」って考え方はもう古い。「これなら死んだほうがマシ」ってくらい「生きていく辛さ」を思い知る 刑を考えなきゃ。


臭いものには蓋をする文化とでもいうか、最近は世間がとにかくきれいごとの、その場しのぎばっかりするようになった。そんなものは、差別用語の問題と同じ話で、ものごとの本質には何も手を触れずに、表面に覆いをかけて誤魔化しているだけのことだ。


「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」祝辞

「お祝いの言葉。天皇皇后両陛下におかれましては、御即位から30年の長きにわたり、国民の安寧と幸せ、世界の平和を祈り、国民に寄り添っていただき、深く感謝いたします」

「私はちょうど60年前の今日、当時12歳だったその日、母に連れられて日の丸の旗を持ち、大勢の群衆の中にいました。波立つように遠くの方から歓声が聞こえ、旗が振られ、おふたりが乗った馬車が近づいてくるのが分かりました。母は私の頭を押さえ、『頭を下げろ! 決して上げるんじゃない』と、ポコポコ殴りながら『ばちが当たるぞ』と言いました。私は母の言うとおり、見たい気持ちを抑え、頭を下げていました。そうしないと、ばちが当たって、急におじいさんになっていたり、石になってしまうのではないかと思ったからです。そういうわけで、お姿を拝見することはかないませんでしたが、おふたりが目の前を通り過ぎていくのは、はっきりと感じることができました」

「私が初めて両陛下のお姿と接したのは、平成28年のお茶会の時でした。なぜか呼ばれた私に、両陛下は『交通事故の体の具合はどうですか』『あなたの監督した映画を見ています』『どうかお体を気をつけてください』『頑張ってください』と声を掛けていただきました。この時、両陛下が私の映画のことや体のことまで知っていたんだと驚き、不思議な感動に包まれました」

「ただ、今、考えてみれば、天皇陛下がご覧になった映画が、不届き者を2人も出した『アウトレイジ3』ではないということを祈るばかりです。また、おみやげでいただいた銀のケースに入っているコンペイトーは、わが家の家宝になっており、訪ねてきた友人に、1粒800円で売っております」

「5月からは、元号が『令和』に変わります。私がかつて居た『オフィス北野』も、新社長につまみ枝豆を迎え、社名を変えて『令和』に対して『オフィス冷遇』にして、タレントには厳しく当たり、変な情をかけないことと決めました」

「私は、自分が司会を務めた番組で、私たちがニュースなどで目にする公務以外にも陛下が、1月1日の四方拝を始め、毎日のように国民のために儀式で祈りをささげ、多忙な毎日を過ごされていることは、知ってました。皇后陛下におかれましては『皇室は祈りでありたい』とおっしゃいました。お言葉の通り、両陛下は私たちのために、日々祈り、寄り添ってくださっていました。私は、感激するとともに、感謝の気持ちでいっぱいです」

「平成は平和の時代であった一方、災害が次々と日本を襲った時代でもあります。そのたびに、ニュースでは、天皇、皇后の両陛下が被災地を訪問され、被災者に寄り添う姿が映し出されました。平成28年8月、陛下は次のように述べておられます。『私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず、国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました』。国民の近くにいらっしゃり、祈る存在であること、そのお姿に私たちはひかれ、勇気と感動をいただきました。あらためて、平成という時代に感謝いたします。また、ずっと国民に寄り添っていただける天皇、皇后両陛下のいらっしゃる日本という国に、生を受けたことを、幸せに思います。ありがとうございました」

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